
近年、ESG投資の拡大や労働人口の減少といった社会背景に伴い、「ヒト」をコストではなく投資対象の資本として捉える「人的資本経営」が急速に重要視されています。企業価値の向上を持続的に実現するためには、従来の人事管理の枠を超え、経営戦略と密接に連動した「戦略人事」への転換が不可欠となっています。
しかし、重要性は理解していても、具体的にどのように人事データを活用し、現場での運用に落とし込めばよいのか、その実践方法に課題を感じている経営者様や人事担当者様も少なくありません。単なる数値管理や制度の導入にとどまらず、従業員一人ひとりのパフォーマンスを最大化し、組織全体の成長につなげるためには、体系的なアプローチが必要です。
そこで本記事では、人的資本経営を加速させるために必要な戦略人事の実践ポイントについて、基礎知識から具体的なアクションプランまでを詳しく解説します。人材データの科学的な活用プロセスや、従業員のエンゲージメントを高めるためのリスキリング、さらには透明性のある情報開示の秘訣までを網羅しました。組織のポテンシャルを最大限に引き出し、競争優位性を確立するためのガイドラインとして、ぜひ日々の業務にお役立てください。
1. 人的資本経営の基礎知識!なぜ今、従来の管理型人事から戦略人事への転換が必要なのか
ビジネス環境が急速に変化し、不確実性が高まる現代において、「人的資本経営」という言葉が経営の重要キーワードとして定着しつつあります。人的資本経営とは、人材を「消費される資源(コスト)」として管理するのではなく、「価値を生み出す資本(アセット)」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる経営手法です。
これまでの日本企業で主流だった「管理型人事」は、給与計算や勤怠管理、画一的な研修といったオペレーション業務を正確に遂行することに主眼が置かれていました。そこでは、人件費は抑制すべきコストであり、従業員は組織のルールに従うことが求められました。しかし、少子高齢化による労働人口の減少や、DX(デジタルトランスフォーメーション)の進展により、従来のやり方では企業の成長を持続させることが困難になっています。
今、求められているのは「戦略人事」への転換です。戦略人事とは、経営戦略と人材戦略を密接に連動させ、ビジネスの目標達成に貢献する人事機能のことを指します。経済産業省が発表した『人材版伊藤レポート』でも提唱されているように、経営陣が主導して「どのような人材が必要か」「どのように人材ポートフォリオを構築するか」を明確にし、採用、育成、配置への投資を積極的に行う必要があります。
なぜ今、この転換が急務なのでしょうか。最大の理由は、企業の競争力の源泉が「有形資産」から、人材や技術、ブランドといった「無形資産」へとシフトしているからです。投資家の視点も変化しており、ESG投資の文脈の中で、企業がいかに従業員のエンゲージメントを高め、リスキリング(学び直し)を推進し、多様性(ダイバーシティ)を確保しているかが、企業価値を測る重要な指標となっています。欧米ではISO 30414のような人的資本に関する情報開示の国際規格も広まっており、日本企業も対応を迫られています。
また、働く個人の意識変化も見逃せません。終身雇用が当たり前ではなくなった今、優秀な人材ほど自らの市場価値を高められる環境や、働きがい(ウェルビーイング)を感じられる組織を選びます。管理型人事で従業員を枠に当てはめるだけでは、イノベーションの種となる優秀な人材の流出を招きかねません。
つまり、人的資本経営への取り組みは、単なる人事制度の改定ではなく、経営戦略そのもののアップデートなのです。管理から戦略へ、コストから投資へ。このパラダイムシフトを成功させることが、次世代のビジネスリーダーに求められる喫緊の課題といえるでしょう。
2. 組織の成長を加速させる!人材データを活用した科学的な人事戦略の実践プロセス
これまでの日本企業における人事管理は、現場のマネージャーの経験や勘、あるいは「なんとなくの雰囲気」に依存する傾向が強く見られました。しかし、人的資本経営が重要視される現代において、こうした不確実な要素だけで組織運営を行うことは、経営リスクになりかねません。組織の成長を確実なものにするためには、客観的なファクトに基づいた意思決定、すなわち「科学的な人事戦略」への転換が不可欠です。
ここでは、人材データを活用し、戦略人事を具体的に実践するためのプロセスを4つのステップで解説します。
ステップ1:経営課題に基づいた明確な目的設定(課題の定義)
データ活用を始める際、「とりあえず手元にあるデータを分析してみよう」というのは失敗のもとです。まずは経営戦略とリンクした人事課題を定義することから始めます。「次世代リーダーが不足している」「若手社員の離職率が高い」「営業部門の生産性が伸び悩んでいる」など、解決すべき課題を明確にし、そのためにどのようなデータが必要かを逆算して考えることが重要です。ここでの目的設定が、後の分析精度を大きく左右します。
ステップ2:データの収集と一元管理(タレントマネジメントシステムの活用)
目的が定まったら、必要なデータを収集します。人事評価、勤怠情報、スキルセット、適性検査の結果、エンゲージメントサーベイの回答など、社内に散在している情報を一箇所に集約します。多くの企業では、評価データはエクセル、勤怠は専用ソフト、採用情報は別のデータベースといった具合に管理が分断されています。これらをタレントマネジメントシステムなどを活用して紐付け、一人の従業員を多角的に分析できる基盤(データベース)を構築することが、科学的な人事の第一歩です。
ステップ3:相関分析による成功モデルの抽出(ピープルアナリティクス)
データが整ったら、実際に分析を行います。例えば、「高業績を上げているハイパフォーマー」に共通するコンピテンシー(行動特性)や性格適性、過去の経歴などを分析します。これにより、「どのような資質を持つ人材が、自社のどの部署で活躍しやすいか」という成功モデルが見えてきます。また、離職者のデータを分析することで、退職前に現れる兆候(エンゲージメントスコアの低下や勤怠の乱れなど)を特定し、リテンションマネジメントに活かすことも可能です。Googleが実践しているようなピープルアナリティクスの手法を取り入れ、感覚ではなく数値に基づいた仮説を立てます。
ステップ4:施策の実行とPDCAサイクルの確立**
分析結果に基づき、具体的な人事施策を実行します。ハイパフォーマーの特性を採用基準に反映させたり、離職リスクが高い社員に対して適切なタイミングで1on1ミーティングを実施したりするなど、データを行動に変えることが重要です。そして、施策実施後は必ず効果検証を行います。採用した人材が実際に活躍しているか、離職率は改善したかといったKPI(重要業績評価指標)をモニタリングし、継続的に改善を繰り返すPDCAサイクルを回すことで、組織全体のパフォーマンスは着実に向上します。
人材データは、眠らせていては単なる記録に過ぎませんが、活用すれば組織の未来を予測し、変革するための強力な武器となります。経験と勘にデータを掛け合わせることで、戦略人事はより精度の高いものとなり、企業の持続的な成長を牽引するエンジンとなるのです。
3. 従業員のパフォーマンスを最大化する!エンゲージメント向上とリスキリングの重要性について
人的資本経営の中核は、人材を管理すべき「コスト」ではなく、価値を生み出す「資本」として捉え、その可能性を最大限に引き出すことにあります。変化の激しい現代ビジネスにおいて、戦略人事が特に注力すべき領域が「従業員エンゲージメントの向上」と「リスキリング(学び直し)」です。これらは単独の施策ではなく、相互に作用し合うことで組織全体のパフォーマンスを飛躍的に高める両輪の役割を果たします。
まず、エンゲージメントの向上は、従業員のパフォーマンスを最大化する土台となります。ここで言うエンゲージメントとは、単なる従業員満足度や居心地の良さではありません。企業の目指すパーパス(存在意義)やビジョンに共感し、従業員自身が組織への貢献意欲を自発的に持っている状態を指します。
高いエンゲージメントを実現するためには、従業員一人ひとりのキャリア形成やウェルビーイングに企業が真剣に向き合う姿勢が不可欠です。例えば、SOMPOホールディングスでは、従業員が自身の人生の目的である「マイパーパス」を言語化し、それを会社のパーパスと重ね合わせることで、仕事に対する内発的な動機付けを強化しています。このように、個人の成長と組織の成功がリンクしていると実感できる環境を作ることで、従業員は主体的に業務に取り組み、生産性の向上へとつながります。
次に、リスキリングの重要性についてです。DX(デジタルトランスフォーメーション)の進展により、既存の業務プロセスやビジネスモデルは急速に変化しています。この変化に対応するためには、従業員が新たなスキルや知識を習得し続けることが避けて通れません。しかし、会社主導で一方的に研修を行わせるだけでは、十分な成果は得られにくいのが現状です。
重要なのは、従業員の「キャリア自律」を促す視点です。自身の市場価値を高めるために学びたいという意欲を引き出し、学習環境を整備することが戦略人事の役割です。日立製作所のように、ジョブ型雇用と連動させて職務に必要なスキルを明確化し、AIを活用した学習レコメンド機能を持つプラットフォームを提供するなど、従業員が自らの意思で学びを選択できる仕組みが効果的です。
結論として、エンゲージメントとリスキリングは密接に関係しています。組織への信頼度が高く、仕事にやりがいを感じている(エンゲージメントが高い)状態であってこそ、新しいスキルの習得(リスキリング)に対しても前向きに取り組むことができるからです。そして、新たなスキルを獲得した人材がイノベーションを起こすことで、さらに企業価値が向上するという好循環が生まれます。人的資本経営を加速させるためには、この「やる気」と「能力」の両面へアプローチする戦略的な人事施策の実践が求められます。
4. 失敗しない人的資本情報の可視化とは?透明性を高め企業価値を向上させるためのポイント
人的資本経営において、情報の「可視化」は単なる開示義務への対応ではありません。投資家や従業員、求職者といったステークホルダーに対し、自社の価値と将来性を証明するための重要なプロセスです。しかし、多くの企業が陥りがちな失敗パターンとして、単に数値を羅列しただけのレポートを作成してしまうケースが散見されます。ここでは、失敗しないための人的資本情報の可視化における重要なポイントと、透明性を高めて企業価値向上につなげるための具体的なアプローチについて解説します。
まず、失敗しない可視化の第一歩は「ストーリー性」を持たせることです。離職率や女性管理職比率、研修時間といった定量データを並べるだけでは、その数字が良いのか悪いのか、外部からは判断がつきにくいものです。重要なのは、それらの指標が経営戦略とどのように結びついているかを論理的に説明することです。たとえば、「新規事業の創出」を経営戦略に掲げている場合、その達成に必要な「自律型人材の育成」を人事戦略とし、KPIとして「従業員エンゲージメントスコア」や「社内公募制度の利用者数」を設定するといった一貫したストーリーが必要です。この独自性のあるナラティブ(物語)こそが、他社との差別化を生み、投資家への説得力を高めます。
次に、透明性を高めるためには「比較可能性」と「一貫性」を意識する必要があります。国際的なガイドラインである「ISO 30414」などを参照し、グローバルスタンダードな指標を取り入れることで、他社との比較が容易になり、客観的な評価を得やすくなります。また、単年度のデータだけでなく、過去数年間の推移を開示することで、施策の効果や企業の成長軌道を示すことができます。ここで重要なのは、都合の良いデータばかりを切り取らないことです。仮にある指標が悪化したとしても、その要因を分析し、具体的な改善策(アクションプラン)とセットで開示することで、かえって経営の誠実さやリスク管理能力をアピールでき、市場からの信頼獲得につながります。
さらに、可視化の対象を社外だけでなく、社内にも向けることが成功のカギとなります。人的資本データを従業員に公開し、現状の課題や会社の目指す方向性を共有することで、従業員の当事者意識を高めることができます。例えば、スキルマップの可視化やエンゲージメントサーベイの結果をフィードバックすることは、従業員の自律的なキャリア形成や組織風土の改善を促進します。結果として、社内のエンゲージメントが向上し、それが人的資本の価値そのものを高めるという好循環が生まれます。
最後に、人的資本情報の可視化は一度きりのイベントではなく、継続的なプロセスです。開示した情報をもとに投資家や従業員と対話し、フィードバックを得て、次の戦略や開示内容に反映させる「PDCAサイクル」を回すことが不可欠です。透明性の高い情報開示を通じてステークホルダーとの信頼関係を構築し、持続的な企業価値の向上を目指していきましょう。
5. 経営戦略と人材戦略を連動させるには?現場で活かせる具体的なアクションプランをご紹介します
経営戦略と人材戦略の連動、いわゆる「リンク」は、人的資本経営において最も重要な要素の一つです。経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」でも提唱されているように、企業が目指す将来の姿(To be)と現状(As is)のギャップを埋めるための人材戦略が強く求められています。しかし、多くの企業において「総論賛成、各論不透明」となりがちなのが実情です。ここでは、人事部門と経営層、そして現場が一体となって取り組むための具体的な4つのアクションプランを解説します。
1. 動的な人材ポートフォリオの策定と運用
まず着手すべきは、中期経営計画に基づいた「必要な人材像」の具体的な定義です。単に「グローバル人材」や「DX人材」といった曖昧な言葉ではなく、「海外拠点の立ち上げ経験を持つプロジェクトマネージャー」「Pythonを用いたデータ解析ができるエンジニア」といったように、スキル、経験、コンピテンシーを質と量の両面から明確化します。
その上で、タレントマネジメントシステムなどを活用して現有社員のスキルを可視化し、経営目標達成のために不足しているポジションやスキルセットを特定します。この人材ポートフォリオは一度作成して終わりではなく、市場環境の変化に合わせて四半期ごとや半年ごとに見直す「動的」な運用が重要です。
2. リスキリングと自律的キャリア形成の支援
特定されたスキルギャップを埋めるためには、外部からの採用と並行して、内部人材のリスキリング(学び直し)が不可欠です。定義した人材要件に基づき、eラーニングやワークショップなどの学習機会を提供します。
重要なのは「学んで終わり」にしないことです。リスキリングによって新たなスキルを習得した社員が、その能力を発揮できるポストへ配置転換できる仕組みを整える必要があります。社内公募制度やFA制度を活性化させ、意欲ある社員が戦略的な重要ポジションへ手挙げできる環境を作ることで、エンゲージメントの向上と戦略実行力の強化を同時に実現します。
3. OKRによる目標管理の浸透と評価制度の刷新
経営戦略を個人の日々の行動レベルまで落とし込むために、Googleやメルカリなどの先進企業も採用しているOKR(Objectives and Key Results)のような目標管理フレームワークの導入が効果的です。全社の目標と部門の目標、そして個人の目標を透明性高く連鎖させることで、社員一人ひとりが「自分の仕事がどのように経営戦略に貢献しているか」を実感できるようになります。
また、評価制度においても、短期的な業績数値だけでなく、人的資本経営の観点から「挑戦」や「学習」、「組織への貢献」を評価項目に組み込むよう改定することで、経営が求める行動変容を促します。
4. HRBP(HRビジネスパートナー)の機能強化
戦略人事を現場に定着させるためには、人事部門が管理屋から脱却し、事業成長のパートナーとなる必要があります。各事業部にHRBP(HRビジネスパートナー)を配置または担当させ、事業責任者と膝を突き合わせて組織課題の解決に取り組みます。
HRBPは現場のリアルな課題感を経営や人事本部にフィードバックすると同時に、経営戦略の背景や意図を現場に翻訳して伝える役割を担います。また、現場マネージャーが行う1on1ミーティングの質を高めるためのコーチングやサポートを行うことで、現場レベルでの対話を促進し、戦略と現場の乖離を防ぎます。


